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山のおもしろ歴史いろいろ
CLIMBING2)高遠藩の歴史事案
2012年、私は初めての御岳スカイレース(2014年御嶽山噴火)に出場する為のトレーニングを兼ねて、その夏の盆休みをレースの下見に行く事にしました。麓の王滝村に入り、その日の内に観光協会を訪ね、翌日から同コースのタイム測定しながら、田の原まで上りました。(田の原まではスキーコースなので急勾配の登り一辺倒なので、かなりきついコースです)
その日は田の原の宿坊に泊まり、翌日頂上まで登り、田の原からはバスで王滝村の駐車場に戻りました。とりあえず翌週の本番の心構えだけは出来たわけです。
話の本題はその帰り道の事です。王滝村から国道361号線をを走り152号線に出て、中央道を甲府方面に走っていた時に右手に入笠山が目に入って来ました。いつか聞いた事のある(花の綺麗な入笠山)せっかくここまで来たのだからと登山口の駐車場を目指す事にしました。入笠山は山と言うより、高原歩き。昨日の休息を取るには丁度良い高原歩きなのです。花はほとんどなく(5月~6月頃との事)頂上まで気持ちの良い高原でした。せっかくの登山ですぐ帰るのはもったいないと反対側から遠回りをして戻る事にしたのです。その途中、立て看板に出会ったのです。おそらく高遠より近道をして甲州街道に抜ける予定だったのだと思われます。江戸時代に起きた痛ましい盗賊の事案です。
では今は桜の名所、高遠藩とはどのような藩なのでしょうか。そして歩みは……。
戦国時代は諏訪氏の一族→武田信玄の支配→織田信長の支配→保科氏の所領→関ヶ原の戦いの後に徳川領となり、やがてドラマの始まりとなります。
2代将軍秀忠の隠し子(幼名幸松)は侍女の子として生まれます。発覚を恐れた将軍家は、老中土井利勝以下数名しか知らせず、武田信玄の次女見性院に内密の内に預けられ養育されます。やがて、高遠藩保科正光の子として育てられ、後に保科正之と名を改めます。いつしか3代将軍家光の知るところとなり、家光は実弟の存在に大いに喜び、後に家光将軍とご対面の運びとなります。将軍家光は登城にした正之に高遠藩3万石の相続を仰せつけます。
将軍家光は、この有能な異母弟をことのほか可愛がったとされます。やがて山形藩20万石に移封となり、その後に会津藩23万石に取り立てられ、後に30万石となります。そして、4代将軍家綱の後見人に任命される事になります。
この出世の物語はさらに続きます。やがて正之は将軍家の恩に報いる為に、家訓十五箇条を制定します。その中の一項に「会津藩たるは、将軍家を守護すべき存在であり、藩主が幕府を裏切る事あらば、家臣は従ってはならぬ」と記し、以降藩主・藩士はこれを忠実に守り、幕末の松平容保は遺訓を固く守り、最後まで薩長軍の官軍と戦う事になります。
それはまた、戦いの悲劇を生む事にもなりました。高遠藩が生んだ血の遺伝子は、やがて会津の血流となり、令和の現在でも会津の小学校では忠節と忠義の大切さが謳われているのです!! ひょっとしたら徳川260年の礎は、諏訪一族から武田信玄そして徳川とつないだ遺伝子のリレーが生んだものなのかも知れません。
高遠藩が生んだ保科正之は、徳川260年の名君なのであります!!
【別記】 現在(今)でも江戸城に天守が無いのは明暦の大火(1657年)で天守他江戸城下が焼け野原となりました。天守の復旧に待ったをかけ、城下の町民の為に復旧と再建に力を注ぐべきとの保科正之の発言だと言われています。
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